自分が見えていないことを知ること

Last Updated on 2012年7月5日 by admin

パーソナル・ファイナンスにはぜんぜん関係ないけれど…剣道の高鍋選手を見に行きました。剣道のことはまったく知らないし、そもそも行きたくもなかったのだけれど、主人にひきずられて。ところが、帰りはなんだかホクホクとっても得した気分になって帰宅したわたし。。。行きはコストでしかなかったことが、帰りはあふれるばかりの利となりました。

主人が剣道を始めたのは半年ほど前。家と職場の行き来だけで、たいした運動もしてない主人を見て、「小学生のころやっていた剣道でもまたはじめてみれば」と勧めたのはわたし。主人という人は、まるで坂道の真ん中にどんと置いてある大きな岩のような人で、押しても押してもなかなか動かないのだけれど、いったん動き出してしまうと今度は止まれないヒト。最初は重い腰をあげてやっと行ったかんじだったのに、今となっては練習のある火曜日と金曜日を、初恋中の高校生のように待ち焦がれている。家では、すり足か踏み込みか知らないけど、床の上で不穏な足さばきをしては、家族にうさんくさがられているわけ。

その主人がある日、「おい、世界一の高鍋が○○に合同練習に来るらしいから、一緒に行こう」と言う。どうやらこのあたりの道場が合同で高鍋先生に指導を仰ぐという催しらしい。軽く、「へぇ」と返事をしておいて、「それで、パパもそのえらい先生に稽古つけてもらえるの」と聞いたら、「オレはまだ下手すぎるから出してもらえない」と言います。「じゃ、見るだけ?」「そ、見るだけ。でも、みんなで行こう。みんなで。」

その日は、それで会話は終わったのだけど、そして、当日。。。その日は月曜日。しかも、「みんなで」のうちのひとり、4年生の娘は次の日Mathのテストだし。月曜の夜の7時から9時まで、車で40分ほどもかかるところに、大して興味もないものを、しかもパパが試合するわけじゃあるまいし、見に行くのが面倒くさくなったわたし。ちょっと顔に「ヤッパリ、パパダケ、イッテクレバ。。。」と書いてみたけど、すでに車に乗ってエンジンかけてスタンバイしているヒト。。。仕方なくしぶしぶ横に乗り込む。

「ねえ、べつに文句言ってるわけじゃないんだけど(ほんとは言ってる)、自分が出るわけでもないものに、剣道には別に興味もない家族を連れて行きたいというのはどうしてなの?」

「だって、世界一の高鍋だぞ」

「パパがひとりでいけばいいんじゃないの?わたしたちはべつに見てもさあ。。。」

「世界一なんだから、見たいに決まってるじゃないか。」

とこうくる。いったいそのセンテンスの主語は誰よ? 車は走り出しているし、とりあえず貝になる。

 

着いたら合同練習はもう始まっていた。みんなで広がって竹刀を振って練習しては、高鍋先生を囲んで集まって指導を聞くというのの繰り返し。世界一のアドバイスでも剣道していないわたしにとっては豚に真珠。

ところが、何回かそれを見ているうち、なんだか引き込まれていって、わたしも先生の指導に耳を傾けるようになった。

なんとかっていうワザの説明をしているとき、そのときの注意点や練習の仕方をひととおり指導した先生、こう続けた。

「これはなかなか難しいことです。実際、わたしもできているかといえばできていません。」

…世界一の口からでるにはなんと謙虚なおことば。。。先生は自信満々というタイプではなく、かといって慇懃無礼なところはまるでなく、淡々と自分の未熟を表現したその姿には、なんともいえない本物の自信、自分をわきまえ自分を知ったものだけにある自信がただよっていた。。。

全体練習のあとは、1対1の稽古。はじめに、全員並んで正座し、面をつける。全員横一列に並んでいるので、挙動のひとつひとつがよく見渡せるのだけど、先生の美しさときたら! ぴしっつと正座し、背筋をすくっつと伸ばして、ゆっくりとてぬぐいを張り、ていねいに頭につけるのを見ていると、「今からお茶でもなさるのですか」という出で立ち。乱れがない。気がピンと澄み渡っている。それだけで、強さを感じさせる。熊のような強さでなくて、青竹のような強さ。

先生の前に長い列ができて、ひとり1分の持ち時間で稽古をつけてもらう剣士たち。最初から大声をあげてかかっていく人、にらみあって機をうかがう人、真正面から切り込んでいく人、動き回りながら斜めに打つ人。まったく剣道はわからないけど、見ていて飽きない。そして、まったく剣道がわからないわたしがこんなことを言うのはすごく僭越だけど、ひとつ感じることがあった。それは、先生には他の人に見えない線が見えているということ。

どう踏みこんでどういう軌跡で自分の竹刀が相手の面を打つか、相手の体がこう傾いたときどういう線で竹刀が相手の胴に入るか、相手の竹刀はどういう軌跡を描いて自分を打つか、先生にはすべてがすでに見えているように感じられた。打つと決めれば迷いなく打ち、よけると決めれば迷いなくよける。ものが見えるということは、すごいことだなあと思った。そしてよく見えているからこそ、自分がどこまで到達したか、どこまでできて何ができていないかも見えていて、それゆえ自信をもって「わたしもできていません」と言えるのかもしれないと思った。

先生を見ていて聖書のことばを思い出した。

人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 (Iコリント8:2)

ピラミッドの底辺にいる人なら、自分が見えていない部分が多すぎて、何もわからないと謙遜にならざるを得ないかもしれない。ピラミッドの上の方にいる人なら、先生のように自分がよく見えて、「自信をもって謙遜」になれるかもしれない。危ないのはその真ん中。へんに、小さいピラミッドの頂点なんかに立っちゃっていると、まるで自分はよく見えていると錯覚したりして、見えていないことがあることにさえ気づかなくなるかもしれない。それはわたし。。。小さな家庭を取り仕切った気分になって、いかにも自分はわかっているつもりになっている自分。。。剣道の世界一なんか見に行っても仕方がないと決めつける自分。。。

自分は見えていると思ったら、成長はそこで止まる。見えている気がするけれど、見えていないところがまだまだあると思えばこそ、育つことができる。。。自分の見えなさを知る謙虚さ、そういうものを持ち続けたいし、子どもにも教えてあげたいな。

稽古が終わって、また全員一列に並んで正座する。疲れが見て取れ上半身が斜めになったり、弛んでいたりする人がいる中、先生にはやっぱり一糸の乱れもない。まるでさっきの録画を逆回ししているかのような映像。すっと正座し面をとる先生。

世界一は謙遜で美しかった。

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