疲れは的外れから - 本当のリッチになりたい!

Last Updated on 2012年7月5日 by admin

息子が9歳くらいのころだったでしょうか、お友達のお家から帰ってきて言いました。「ママ、○○(友達の名前)のお家はすごいお金持ちだよ。地下にはメディアルームがあって、ビッグスクリーンTVがあって、サラウンドオーディオで、XBOXもWiiもあって、隣にはビリヤード台があって、ウエットバーの冷蔵庫はコーラでもドクターペッパーでも何でも飲み放題!」 そんな息子によると、「自分の周りでうちが一番貧乏」なのだそうで、そういわれてみれば、その頃の我が家ときたらまだブラウン管のテレビだったし、ゲーム機もなかったし。。。

わたしたち大人でも、人の身に付けているもの、住んでいる家、乗っている車を見て、「あの人はお金持ちだ」とか「あの人はそうでもない」なんて値踏みをしたりすることがありますよね。でも、本当のところは分からないものですよ。だって、お金なんてなくたってモノは買えるし。わたしたちの両親の時代なら、欲しい物があれば貯金をして、お金が貯まったら買うというのが常でしたが、今やクレジット時代。順序が逆になりました。現金なんてなくたって、プラスチックのカードを差し出せばモノは買えてしまいます。バブルの頃は、家でさえ頭金なしでポーンと買えてしまったわけですし。。。

たとえ$1ミリオンの家に住んで、$0.5ミリオンの車に乗っていても、$2ミリオンの借金があったら、それをお金持ちと呼ぶでしょうか。あるいは、ダイヤの指輪きらきらで高級ブランドで身を包んでいても、月々の支払いが間に合わず負債がどんどん膨れ続けているのだったら、それをお金持ちと呼ぶでしょうか。きっとそうではないでしょうね。

では、「クレジットカードも家のローンも負債は一切ありません、銀行に$1ミリオンの資産があるだけです」という人だったら、お金持ちと呼びますか?う~ん、どうでしょうね。どのくらいお金があればお金持ちなんでしょうね。$1ミリオンというとすごいお金のようですが、株式市場の暴落にあっては$1ミリオンがいきなり$0.7ミリオンになってしまうかもしれないし、そうでなくても為替の変動のせいで、$1ミリオンは一億円だったものが簡単に8000万円弱になってしまいます。ふたつのマイナス効果に同時に見舞われるとどうでしょう。アメリカの株で$1ミリオン持っていた人が日本円換算で資産を評価するとなれば、$1ミリオン=1億円だったのが株暴落で$0.7ミリオン。加えてドル安で、$0.7ミリオン x 80円/ドル=5600万円と、半分ちょっとに激減してしまいます。

モノにせよお金にせよ、こんな実質のない相対的なものをもって、「あの人はお金持ちだ」とか「そうでもない」と判断するのは心もとなくなってきますね。

 

聖書にはこうあります。

富んでいるように見せかけ、

何も持たない者がいる。

貧しいように見せかけ、

多くの財産を持つ者がいる。 (箴言13:7)

 

あるお友達から聞いた言葉を思い出しました : 「この世の大切なものの90%以上は目に見えないものである。」そう言われてみればそう思いませんか?大切なもの、そうですね、たとえば愛情。愛情を表現することはできるけれど、本当の愛情自体を手に持って量ることはできません。バレンタインデーにバラの花束をもらったらうれしいけれど、そこに本当の愛情が詰まっているか、妻に怒られるから仕方なく形だけ整えたのかは目で見ることができません。この類の大切なものはたくさんありますね。尊敬、いたわり、やさしさ、自信、満足、安心、感謝、自由、しあわせ。。。どれも大切ですが、直接目で見ることはできません。

大切なものというのはなにも、いいものだけではないのかもしれません。悪いものだけれど、でも大切なものというのもありそうですね。たとえば、嫉妬、ねたみ、不信、哀しみ、憎しみ、不安、嫌悪。。。いいもののほうは、「目に見えない版の資産」、悪いもののほうは「目に見えない版の負債」というところでしょうか。悪いもののほうは目に見えなくて都合がいいじゃないかとも思いますが、でも目に見えないからこそ本当の解決をみないままずっとくすぶっている悪感情や問題があるとしたら、それらは本当に重い重い「負債」ですね。

少し前のこと、相続についてのセミナーに参加したことがありました。わたしの前に座ったおじいさんは、わたしとは違って大きな財産を持っている人のようでした。ビジネスを持っているらしく、何年か前に奥さんとは離婚したようでした。自分が苦労して働いてきたのに、妻は毎日家でごろごろしていただけなのだから、自分の財産は一切やるつもりはない。最近では一人息子ともビジネス上で意見の食い違いがあり、財産を残すのには不安がある。自分が寝たきりになったときは、息子は面倒をみてくれそうにないが、日本にいる姪に少し財産をやるといえば、面倒をみてくれるかもしれないという話をしていました。わたしは後ろでそれを聞きつつ、「この人はお金はあるのかもしれないけど、本当に貧しい人だな。しかもまさか自分が貧しいなどとは、気づいてもいないのだろうな。」と思いました。

 

聖書にはこうもあります。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 (IIコリント4:18)

 

わたしにとって、家族のためにファイナンシャル・プラニングをきちんと遂行していくことはとても大切なことです。自分たちに託されたお金を、賢く責任ある姿勢で使ったり守ったり増やしたりすることはとても重要なことだと思っています。しかしながらともすると、目に見える数字にばかり気をとられて、それが心の拠り所となりがちなことがあります。気をつけねばと思います。人間のためにお金があるのであって、お金のために人間が存在するのではないことを心に留めておきたいと思います。

 

最後に、もうひとつ聖書のことば。

一切れのかわいたパンがあって、

平和であるのは、

ごちそうと争いに満ちた家にまさる。  (箴言17:1)

 

息子には、「ママは、メディアルームがなくてもウエットバーがなくても、うちは十分豊かであると感謝して生きたいと思っているよ」と説明してみましたが、なにせ9歳。「ママはいったい何を言っているのだろう」という一瞥を投げて行ってしまいました。少しずつわかってくれるといいなと祈りつつ。。。

 

聖書でいう「罪」は英語では「sin」ですが、これは聖書の原語ギリシャ語では「ハマルティア」であり、本来は「的外れ」という意味です。わたしたちが生きていくにあたって、的があるべき場所から外れたとき、わたしたちは疲れるのです。「痛み」が体を守るための「警告」であるように、「疲れ」はわたしの心をあるべき場所に戻すための「警告」だと思っています。疲れたときはリセットするとき。あるべき場所に帰郷するときだと思っています。聖書には帰郷するための知恵があふれるほど詰まっています。

 


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2 comments

  1. 凄くいいお話を読んだ気がします。
    がむしゃらに働いて30年、やっと好きな物を買ったり
    食べたり出来るようになった今、本当に大切な物とは?

    余裕が無いと見えなかった物が、余裕が出ると見えてくる。
    余裕が出来て見えなくなってしまった物が、余裕が無い時は見えていたり。

    子供をギュッと瞬間の あの感覚、
    お金で買えないものってありますよね。
    息子さんも 周り、社会を見て、色んな疑問を持ったことと思いますが、
    ギュッとは、ずーっと別物です。きっと

    1. その息子も20歳になり家を離れました。考えてみれば、人間18年しか(大学で家を出るとすれば)親と一緒に住めないなんて、長いようでいて短いものですね。親子の関係は一生ものですが、でも一緒に住んでいるときにしかできないことって案外あるように思います。その時その時にしかできないことってありますよね。

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