アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(3)

12月は、4回シリーズで「アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ」というのをお届けしています。アルケゴスの転落」の部分はファイナンシャルプラナーとして思うことがあり、「人間のかなしさ」の面ではクリスチャンとして考えさせられる部分があり、クリスマスの月にちなんでこの両面から思ったことを書いています。今日は3回目。先週は、今回のアルケゴスの転落が単なる「悪意のない投資の失敗」なのか、それとも投資のプロとして避けうる失敗であったのかに思いを馳せました。また、自身は地味な生活をし多くのクリスチャン団体に巨額の寄付をしていた「敬虔なクリスチャン」であるビル・ファンは、神の前に「低い」存在であったのか、それとも「高ぶり」があったのかについて考えてみたことを書きました。

投資の才があり毎年私財を大きく増やしてきたファン氏は、望めば大邸宅に加え各地にバケーションホームを持ち、ヨットを持ち、高級車を乗り回すライフスタイルは可能でした。彼はそれをせず、ニュージャージーの彼の資産にしては比較的謙虚な家に住み、ある記事によれば、彼は庭でCostcoで買ったプラスチックのテーブルとチェアを愛用していたそうです。彼は、自分のためにお金を使わず、巨額を寄付していた。巨額を寄付するために、大きなリスクをとった投資をしていた・・・

過去の記事はこちら:

アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(1)

アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ(2)

人間のかなしさ

ファン氏を思うとき、人間のかなしさを思うのです。初めはよい目的のために、よい意図であることを始めたのが、やっているうちに目的や意図がすり替わり、そのやっていること自体が目的になってしまう。的を外すかなしさです。

ファン氏のことばかり取り上げるのも申し訳ないので自分のことで話しましょう。たとえばこんな感じです。かわいくて愛おしい子ともが、ちゃんと育ってきちんとした人間になり、楽しく有意義な人生を送ってもらいたいと思って、教育に力を注ぎます。宿題を手伝ったり、プロジェクトを一緒にやったり、習い事に連れて行ったり・・・。目的は愛する子どもの幸せです。ところが、やっているうちに、宿題を日々終わらせること、よい出来栄えのプロジェクトを完成させること、習い事に文句を言わず行かせること、すべてのTo-doリストを期限までに終わらせることが目的にすりかわってしまう。愛するためにやっていたことなのに、計画通りにいかなければ、いらいらがつのり子どもに憎しみまで感じる自分。的が外れるのです。私はこれで、なんど子どもと口喧嘩をし、子どもを傷つけ、自分も疲れ果てたことでしょう。的外れは、どんどん拡張していきます。的が外れているので、そもそもの目的、子どもを愛して幸せにすることという目的も達成されるはずがありません。(ちなみに、私はこれで大悔い改めをし、今は子どもと大変に良い関係です。これは神に的を当てなおした結果だと思います。)

ファン氏もこういうところがあったのではないかと疑うのです。初めの目的が、だんだんとすり替わってしまった。自分には責任がとれないほどのリスクに対してもおごりが生じ、どんどんとるリスクが高くなってしまった。たくさんお金を稼いでたくさん寄付することが目的になってしまった。聖書には決して、「たくさん寄付をしなさい」とは書いてありません。神はお金がないと生きていけない存在ではありません。神が欲しているのは、本当は私たちの心だと書いてあります。下は、古代イスラエルのダビデ王のことばです。「私」はダビデ王、「あなた」は神です。

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません

全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。

神よ。あなたは、それをさげすまれません。(旧約聖書 詩篇51篇16~19節)

ダビデ王は、神から的が外れ大きな罪を犯しました(姦淫、ひいては浮気相手の夫を計画殺人)、その状態で神に何をささげても神は喜ばれないと書いています。古代イスラエルでは、お金の代わりに動物や穀物をいけにえやささげものとしてささげましたが、悔い改めることなくいけにをささげても、神はそれを喜ばれない。神が喜ばれるのは砕かれたたましい(神の前にへりくだった心)、悔いた心(自分の栄光ではなく神の栄光を思う謙虚で悔い改めた心)だと書いています。ダビデ王は悔い改め、神に立ち返ったため、その子孫としてキリストにつながりました。

ファン氏はたくさん献金したが、いつの間にか砕かれたたましいや、悔いる心がなくなってしまったのではないか。神のためにささげていたことが、いつのまにか自分のゲームになってしまったのではないか、などと感じるのです。神のために献金しているといいながら、実は巨額を献金している自分が神になっていたのではないか・・・。

立ち返るチャンス

実際、2012年のインサイダー取引での罰金は、神からの警告であったのかもしれないとも思います。そこで悔い改め、的を当てなおしていたら今回の転落にはならなかったかもしれないとも思います。ちなみに、「悔い改める」はいわゆるキリスト教用語で、なんだかちょっとコワイ響きがあるかもしれませんが、へブル語では「テシュバ」といい、「(神に)向き直る」ことを意味します。方向を変えて、向かうべき方向に戻ることです。的を外しているので、体の向きを直して的を当てなおすことが悔い改めです。私たちは悔い改めてクリスチャンになりますが、悔い改めは一回すればよいというものではなく、私たち人間は、程度の大小こそあれ日々的がずれますから、日々的を当てなおす修正をする必要があります。それが聖書を読み神と語らう時間を持つということです。ファン氏にとって、インサイダー取引で起訴されたことは、的を当てなおす大きな機会であったのではないかと思うのです。

2012年のインサイダー取引での罰金の後、ファン氏は神に向き直るかわりに、それまで走っていた道をさらに強引に前進したように思います。彼は、ファミリー・オフィス(個人=ファン氏の私財を投資・管理する団体)としてのアルケゴスを立ち上げました。ファミリー・オフィスは個人の私財だけを扱うので、広く一般の人のお金を預かって投資する投資会社などとは違い、SECへの登録・情報開示義務を免れることができます。いわば監視やチェックをされずに、やりたいようにできる体制を組んだともいえます。聖書にこうあります。

悪を行う者はみな、光を憎み、

その行いが明るみに出されることを恐れて、

光のほうに来ない。(新約聖書 ヨハネによる福音書 3章20節)

私たちは、自分の思うようにやりたい、自分の計画で進めたいと思う存在です。少しズレたな・・と感じることはあっても、自分の心のなかで目をつむり、人には言わずにそのまま進みたいと思う存在です。そこが危ない岐路であることも多いものです。私は、アカウンタビリティ・パートナーといって、私のことをよく知っていて、私が的を外しそうになったとき、また実際的を外した時に教えてくれる友人を何人か持っています。的がはずれたときは正直にそれを教えてくれ、私も自分の的外れを正直に打ち明け、偏見やとがめなく、ともに聖書を読み祈ってくれる大切な存在です。宝のような存在です。自分でやばいなと思ったとき(たとえば、人間関係で相手ばかりが悪いと責め始めたり、反対に自分が被害者になって自己憐憫に陥ったり、たとえ教会のしごとであっても(神のためにではなく)自分の満足や自分の名誉のためにし始めたり・・・などなどの的外れを感じたとき)、すぐにこれらの友人に連絡して、問題を光の下に出し、神に立ち返る作業をします。どんなに小さくとも的が外れたと思ったらすぐするように心がけています。光に出さないと、的はどんどん外れるからです。ファン氏がこの作業をどのくらいしていたのか私にはわかりませんが、ファミリー・オフィスという形態での運営が光を遮る仕組みを作っていたことは否めないと思います。

自分のことはわからない・・・

ファン氏の言葉にこんなのがあります:

「最も重要なことは、みことば(聖書)を通して神様が願い、喜ばれることが何なのかを正確に知る必要があるということです。神様は私たちのすべてが豊かで幸せに生きることを望んでおられます。ですから、クリスチャンのCEOたちがまずみことばを聞いて学び、神様が願われることは何なのかを知って、それを行わなければならないということです」

本当にそうだと思います。CEOでなくてもみなそうだと思います。この言葉を読んだとき、ファン氏は、他のCEOのことではなくて、自分自身のことはどう考えていたんだろうと思うのです。

聖書は深く、洞察力に富み、癒す力に満ち、知恵を与える本です。毎日読むうち、身の回りに起こっていることをより高い新しい目線から見ることができるようになります。私の罪の告白ですが、そうすると周りの人の的外れがすごくよく見えて(ここまではいいのですが)、おせっかいにもそれを批判したりする(実際に批判しなくても批判の心を持つ)ことになります。だけど、それは本末転倒。聖書を読んだら、外(人)を見るのでなく、内(自分の心)を見なくてはならないのです。自分が的外れであることを吟味もしないで、外の批判をすることは全くもって的外れです。ファン氏がもし、こう語っていたら・・・

「最も重要なことは、みことば(聖書)を通して神様が願い、喜ばれることが何なのかを正確に知る必要があるということです。神様は私たちのすべてが豊かで幸せに生きることを望んでおられます。ですから、私は まずみことばを聞いて学び、神様が願われることは何なのかを知って、それを行わなければならないということです。」

多額の寄付をして全世界への聖書のことばの拡散を支援していたファン氏。聖書のみことばは、ファン氏自身の心にはどのくらいリーチしていたのか。これはファン氏だけでなく、私たち全員の問題でもあります。聖書にこうあります。これはキリストの語ったことばです。

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、

自分の目にある梁には、なぜ気が付かないのですか。

兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。

見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。(新約聖書 マタイによる福音書 7章3-4節)

ちりは小さなほこり。梁は家を建てるときのビーム(建材)。自分の目を自分の目で見ることができないから、外にあるものばかり見るが、実は自分の目にこそメガサイズの不純物が入っている!自分の目にある不純物を見るには、それを映し出す鏡が必要であり、この鏡が聖書のみことばというわけです。みことばをまずは自分自身に適用し、悔い改めることが必要ということです。

私はファン氏にはもちろんお会いしたことはありませんが、限られたビデオや語録を見ているに、彼が「私は悔い改めなくてはならない」という意味のことを語っているところがないことに気づきます。まあ、たまたま収録されなかっただけかもしれないけれど、でも悔い改めはクリスチャンンとして日々の日課なので、もしかして自分が見えていなかったのかもな・・などとも(ちょっと偉そうだけど)感じたりもします。

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