前回は、「食っていかなきゃならない」で終わりました。塾通い、High Math、AP、大学、就職・・・「食っていかなきゃならない」から、みんな頑張るのかなと・・。でもそんな中、職場でのプロモーションを拒否したり、給料が下がってでも自分らしい生き方を選ぶ人も増えているようだということを書きました。今日はその続き・・・
たしかに「食べていく」ことって大変ですね。英語で言うと、”putting food on the table.”といいますが、食べ物なしでは私たちは生きていけない。だから食べること、食べるものを買うお金を稼ぐこと、お金を稼ぐために仕事をすること・・・に心を砕くのでしょう。この力があふれている人を私たちは尊敬の目で見ます。反対に経済力のない人は一人前ではないという見方がされます。
苦しんで得る食
創世記を読んだことがありますか?何の労苦もなく、食べるものもふんだんに与えられたエデンの園に住んでいたアダムとエバに、神様はこういいます。
神である主は、人に命じて仰せられた。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:17-17)
この時点では「自分で食べていく」という考えはありませんでした。食べ物はあふれるほどにただ与えられていたのです。でも結果はご存知のとおり、ふたりはこの木から実をとって食べます。そしてその後、神様はこうおっしゃいます。
また、アダムに仰せられた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。・・・
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 (創世記3:17,19)
一生、苦しんで食を得なければならない・・・「人間、食っていかなきゃならない」し、「働かざるもの、食うべからず」ですし、「人生そう甘くない」し、「大学くらい出なきゃいけない」し、「APたくさんとらなきゃいけない」」し、「High Mathに入らなきゃいけない」わけですよ・・・そしてそこには苦しみも伴う・・・はぁ~。厳しい。
ソロモンの空しさ
ソロモンという王様をご存知ですか? 古代イスラエルの第一代目のサウル王、二代目ダビデ王に続く三代目の王様で、紀元前971年から紀元前931年頃に王国を治めた人です。ソロモンは、秀でる者が他にないほどの知恵を持ち、ビジネスセンスとリーダーシップにも長け、イスラエルの最盛期を築きました。王位を継承した当初は創造主である神に心を向ける生活をしていましたが、人生の後半では地位や力や財を追い求めることに心を砕きました。交易を広げ国の経済を発展させ、大規模な土木工事で主要都市の強化も図り、エルサレムには立派な神殿を築き、軍事面でも統治面でもイスラエルは強国となりました。まさに、怖いものなし、人間としてこれ以上望むもなしというポジションにいた王様です。
そのソロモンが書いた伝道者の書という書物があります。その第一章の第一節はこう始まります。
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。 (伝道者の書1:1-3)
全盛期を治めた王様にしては、なんとうつろな始まり方でしょう。「空」という言葉は、英語では”vanity”という言葉で、ヘブル語の原語では「十分でなく価値もなく、息や泡のようにすぐに消えてしまうもの」という意味があるそうです。ソロモンは、これを手にしたら、あれを手にしたらと追い求め、すべてを手に入れたけれども、どれもこれもよろこびや満足感は長く続かずすぐに消えうせるものだったということなのでしょう。もうちょっと読み進めると、こうとも・・・
私は自分の心にこう語って言った。
「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。
私の心は多くの知恵と知識を得た。」
私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。
それもまた風を追うようなものであることを知った。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。 (伝道者の書1:16-18)
今風にいうなら、「ソロモンさん、あなたもディプレッションですか?」というかんじですね。「知らぬが仏」とも言いますけれど、知れば知るほど苦しくなるということなのでしょうかね。塾がない世界にいれば、塾にいかなきゃとも思わないけど、いったんその世界に入り込めば、塾に行かなくていいのかと自問するようになる・・・。High Mathなんてなければ、授業についていけれいればそれでおしまいなのに、High Mathの存在を知ってしまえば1学年上、2学年上のレベルを目標にせざるを得ない。知恵や知識が多くなると、自分の力でなんとかしようと頑張ってあがいて疲れるということもありますね。ファインナンシャル・プラニングを提唱している私がいうのもヘンですが、プラニングもしかりです。調べれば調べるほど、自力でできると思い、計算して計画して・・・でも、どんなに保険を買おうと、どんなにお金をためようと、将来これで絶対大丈夫なんてものはありませんから、知れば知るほど心配も増えたり・・・。
ソロモンは苦悩と祈りののち、ひとつの思いに達します。
見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。
これが人の受ける分なのだ。 (伝道者の書 5:18)
労働をよろこぶ
創世記では、「労苦の中で、食を得る」とされていますが、ここでは、「労苦」と「食」の間に「しあわせ」という言葉がはいっています。「しあわせを見つけて」は英語では“enjoy the good of all his labor”という表現です。「労働の実をよろこぶ」というような意味合いですが、どうやったら労苦をともなうような労働(あるいは勉強)のなかによろこびを見出すことができるのでしょう。伝道者の書の最終章では、ソロモンはこう締めくくっています。
あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。 (伝道者の書12:1)
ソロモンは、自分の頑張りだけに頼るのではなく、「神を覚えよ」といいます。「神を覚えよ」とは、自分がすべてをできる、自分がすべてを知っている、自分のやり方が正しい、こうでなければならない、他のやり方は許せない・・・とは思わずに、神様にゆだねなさい、神様が私たちの人生で働いてくださる余裕を残しておきなさい、がんじがらめになってはならないよ・・ということです。自分が知恵があると信じ、自分の努力ですべてを成し遂げようと思っても、また、うまくいってそのとおりになったとしても、行き着くところは「むなしさ」だということなんでしょう。なぜなら、この世のもので永遠に続くものはないから。人間はわかっているつもりでもわかっていないことが多い存在だから。。。ソロモンはこうも言っています。
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。
なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。
自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。
神を恐れる者は、この両方を会得している。 (伝道者の書7:16-18)
アダムとエバが善悪の知識の木を食べたとき、人間は、自分がわかっていなかったり正しくなかったりすることを忘れ、自分で善悪の判断がつき、判断に必要な知識を持っていると勘違いし始めたのですね。この勘違いこそが、人間の原罪だと思います。私なんて、子どもに対して勉強を教えたり、しつけをするときも、ついつい自分のやり方が正しいと信じ込み、それはそれは頑強な態度で接してしまったりします。自分の経験や知識など限られたものであるにもかかわらず、それが「この世の鉄則だ」ばかりの物言いになってしまったりもします。ただ、悪すぎても、愚かすぎてもいけない・・・とありますから、何の努力もせずいい加減な人生を生きるのもいけないとされています。努力はするだけするが、がんじがらめにならない・・これがミソですが、これがヒジョーに難しいのですけども。
自分の人生も子どもの人生も、「ふっつ」と手放して神にゆだねる・・・これが私の目指すところです。私は必ず朝、聖書を読むようにしていますが、本当に祈り求めゆだねる気持ちで神の知恵を仰ぐとき、かならず「よろこび」が与えられるのを知っています。自分が本当に足りないものであること、足りないものを補ってくださる神がいること、足りないが思い煩う必要がないことを知るのです。ゆだねるとき、自分では思っても見なかった道が開けることも数多くあります。反対に、自分でやらなきゃ、頑張らなきゃ、目の前のことを片付けなきゃ、子どもにやらせなきゃ・・とあせっているときは、この「よろこび」とは遠いところにいますし、だいたいよくない結果に終わります。
稀有な人生
私の敬愛するU牧師のお話をしましょう。U先生は、父親の反対を押し切って宣教師になりました。東京の有名大学を出たU先生に、お父様は大きな期待をしていました。他の兄弟と同じように、ビジネスの道を歩き成功してもらいたいと思っておられたのでしょう。「宣教師のような金にならない仕事をして・・」と嘆いておられたのだとお聞きしました。宣教師になったU先生に対し、お父様は、「きっと宣教師の給料じゃ、結婚もできないだろう」と思っていらっしゃったそうですが、U先生はすばらしい奥さんを与えられ、夫婦ふたりで福音を伝える生活がはじまりました。お父様は、「いくらなんでも、不安定な給料では、子どもを持つことはできないだろう」と思っていらっしゃったそうですが、U先生ご夫妻には、すばらしい娘さんが3人与えられました。お父様は、「だけども、きっと大学まで出してやることはできないだろう」と思っておられましたが、この3人は立派に大学を卒業し、娘さんたちが卒業した大学の中には授業料の決して安くない私立の大学も入っています。お一人は大学院まで進まれました。奥様はこうおっしゃっておられました。「うちはいつもお金は楽ではなかったけれど、その分、神様に祈りゆだねることで、「人生の中で働いてくださる神様」、「ふんだんに与えてくださる神様」を体験する機会が何度もあったのは大きな恵みでした。うちの娘のうち誰一人として、うちが貧乏だと思って育った子がいないのもなんとも不思議なことです」と。言葉の達者なU先生は、世界中にお友達がおられ、本当に豊かな生活をしておられます。ファイナンシャル・プラニング的にいえば、U先生は529プランもなければリタイヤメント資金をたくさんためる余裕もない、とてもAをあげられないものかもしれません。でも神を仰ぐとき、人間のするプラニングなんかでは計り知れない大きなものがはたらくのですね。そのようなU先生の人生を見るにつけ、お父様はことあるごとに、「お前の人生はまったく稀有だ、稀有だ」といっておられたそうです。そしてお父様が亡くなるとき、最後にU先生に向かって、「兄弟のなかでお前が一番成功した・・」とおっしゃったそうです。
日々の日常に埋もれると、どうも「自力サイクル」にはまってしまい苦しくなってくる私ですが、的はHigh MathやAPに置くのではなく、神様に置きたいと思います。つい的をはずしがちなことが多いですが、はずしたときはまた戻ります。このファイナンシャル・プラニングというしごとも、できる限りのことをした上であとはゆだねるというスタンスで、謙虚に臨みたいと思います。神様はいいました。。。
神である主は仰せられた。
「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。
今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 (創世記3:22)
善悪の木からとって食べ善悪を知る(本当は知っていないのに知っていると勘違いしている)ようになった人間が、いのちの木からもとって食べ、その勘違いの状態のまま永遠に生きることがないように、神様はアダムとエバをエデンの園から追い出されました。いのちの木へのアクセスは遮断されたわけです。そのうえ、私たちはいつかは死んでちりに帰らなければならないが、その時を知ることができないのです。自分が死ぬときがいつでそれがどのように起こるかは、私たちにとって究極の情報であります。ファイナンシャル・プラニングも、この情報があると、リタイヤメント資金をどのくらいためて、年々どのくらい使っていいか、かなり正確にできるようになります。それに保険も不要なものも増えますし、必要なものでもかなり簡略化できたりします。この究極の情報を人間にはわからないようにされているのは、神様の知恵であり愛情なんだと思います。自分たちがちりにかえるときさえもわからないのだから、謙虚にならざるを得ない存在なんだということを教える最後の砦といいますか。。
ちなみに創世記は聖書の最初の書ですが、分厚い聖書を一気にファーストフォワードして最後の書にいきますと、それは黙示録です。そこには、こうあります。
勝利を得る者に、
わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。(黙示録2:7)
そう、私たちにはいのちの木の実を食べるチャンスはまだあるのです。それは、また今度の機会に・・・。
全く同感です。
うちは中西部なので穏やかですが、サウスCAってすごいと聞きます。
私もクリスチャンです。今あるものに感謝して、すべては神様に与えていただくものと思っています。だからDave Ramseyは教えがいがあって好きです。
実際、こちらの超のつく大企業で働いていますが、学歴無理してとってもどうなの?って感じですよ。今後も記事楽しみにしております。
Dave Ramsey、あんまり知りませんでした。教えてくださってありがとうございます。そうですね、今あるものに感謝して、それから主の山には備えあり・・を信じて生きていきます。子どもも神がつくられた最高の作品ですから、祈りをもって育てて行きたいと思います。
人間が生きていくうえで何が大切かっていうのは、難しいですよね。色々と絡み合って。
知識の話面白く読ませていただきました。
何かで聞いたか読んだことがありますが、伸びる人、とか成長する人。というのはどれだけ沢山の知識を持っても、自分はまだまだ何も知らない。まだまだ何も出来ない。というように感じる人が多いそうです。そして、自分ではそう感じているのに、そういう人って周りから見ると世界的に有名な画家だったり音楽家だったり、ビジネスマンだったり。そして、なぜそういう人たちがそこまでにスキルを高めたり知識を得たりできるのかと言うのが、その、「自分にはまだまだ知識がなく、学べることがいくらでもある」というスタンスを、どれだけ知っても、どれだけ学んでも、失わず。そして、それに面白みを感じるらしいのです。
知れば知るほど心配も増えるのですが、そこに対する面白みも増えるみたいです。
逆にあまり成長しない人というのは、自分の知識が凄いものだと思っているので、もう学ぶ必要がない。と感じているらしいのです。
確かに最もですよね、自分に知識が十分にあると思っていてはどこにも成長できる隙間がないのですから。
個人的には自分がいつチリに帰るのかわからないって言うのは、素晴らしいかなと思います。
結末を知ってから映画を見るのはつまらないように、自分の人生は不安定であっても、まだまだ知らない何かが待っていると思えるほうが。
そうですね、Maruさん!探究心と謙虚さ、これが合わさったとき、すごいパワーになるんじゃないでしょうか。私の大好きな言葉にこういうのがあります(すいません、これも聖書からで。。)「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」(Ⅰコリント8:2)。
私はキリスト教は全くわかりませんが、ソロモンさんのお話は、般若心経みたいですね。大事なことを思い出させてくださって、ありがとうございます。
私はおバカなので、子どものように感情を隠せない人です。ばか正直です。どうにかしようとしても治りません。映画を観てすぐ泣きます。愚かです。
「大人社会ではそんなんじゃだめだ」と言われます。大抵、比較的恵まれていたり、競争に勝ってきた人から。
でも私から見れば、表面を装って何考えているんだかわからない人になって、人生楽しいか?と見えます。そもそもそんな人、あまり信用できません。本人はプロフェッショナルと思っているかもしれませんが、ある意味信用できない~。
もちろん、頭脳もあり、思いやり溢れる労働に喜びを見い出している素晴らしい方もいらっしゃいますけれど。(激レア。神。)
最近気が付いたのですが、私はもしかしたら、自分のような人が多い地域の方が暮らしやすいかもです。
つまり、今住んでいる地域よりも、う~ん。。。おバカが多い地域です。笑
その方が、素直に喜びや哀しみを分かちあえる気がします。
ちなみに、私は本気で結構重い自閉症の子を大学に入れるつもりです。
これは、教育ママでも、見栄でもありません。
あえてそこに目標を定めています。
自分の好きなこと、人のためにやりたいと思えることを、たくさん学んで欲しい。それだけです。
別に大学でなくてもいいんですけれどね。まあ大学がだいたい何でも学ぶのに適した場だから。
でも、これを周りに言っても、なかなか理解してもらえません。
プロは、うちの子を、たくさんいる中の1人の障がい児としか見ていませんから。
で、私は怒ったり泣いたりしてしまい、そこを責められる。
世の中の偉い人に。
むか~!(-“-)
はっ!!
どうせ善悪も無ければ、苦しみは当たりまえだった!^^
Cheeさん、おバカというのは、こどものような心を持った人・・ということなんじゃないですか?何でも「知識と経験のある大人」のように考えるのではなく、人間としてこどもが思うように思う・・こどもはダメそうでもとりあえずやってみます。「コレコレこういう理由から、うまくいくわけはない」なんて考えませんからね。ボストンとかって知識と経験豊富なプロフェッショナルがたくさんいそうだから、なんとなくそうやって責められるのもわかります。ここもそうだけど。私も実はもっとのんびりしたところに引っ越したいです。学校のテストスコアが少々低くてもOK!人間が人間らしいところがいいかな。バカほど強いものはない!です。。Forest Gump見ました??
もう ずいぶん前より、たまにこちらのサイトを訪問させていただいております。いつもいつも示唆に富む情報をありがとうございます。この記事はちょっと前のものですが、初めて気がついたような。。
私はニューヨークのマンハッタンに住んでおりまして、子供二人は長年私立校に通っております。ここ数年の傾向として、私立ではAPクラスは縮小する流れがあり、High Mathもありません。理由はまさに、貴女が説明している通りで、高校でやるべきことは大学のクラスを早く終えることではない、高校生活をエンジョイしよう、という理由です。APクラスをたくさん取ると、大学入試に有利というような説明もされておりません。一般的に私立校は小規模で特殊な環境なので一概に比較はできませんが、そういうこともあるということで。。。(うちの子供の学校だけでなく、この辺の私立校一般がそうなってきています)
ただ、公立校のお友達をみるに、AP, High Math、塾に家庭教師が蔓延する事実も否定できません。人数的には、明らかにこちらの方が大勢です。
通われる私立校は、勇気のある学校ですね。きっとマーケティング面からしても「うちの学校はこんなにAPクラスがあって、テストスコアもいいです!」と売り込んだ方がずっと合理的でしょうけれど、そのような学校がニューヨークにあることを知り、なんだかうれしくなります。社会の流れというか、Majorityと同じ流れに乗る方が、なんだか安心な気がして、流れに乗っていないと不安になるというのが私たちの傾向ですが、でも人生の半分くらい終えてみて自分の人生や周りの人を見て思うのは、1年、2年早かろうが遅かろうが、長期的には誤差・・じゃないかしら・・ということです。