12月は、4回シリーズで「アルケゴスの転落に思う人間のかなしさ」というのをお届けしています。アルケゴスの転落」の部分はファイナンシャルプラナーとして思うことがあり、「人間のかなしさ」の面ではクリスチャンとして考えさせられる部分があり、クリスマスの月にちなんでこの両面から思ったことを書いています。今日は2回目。前回は、ビル・ファン氏がアルケゴス社を始めるまでの経緯と、彼が「敬虔なクリスチャン」であり、自身は比較的地味な生活をしながら、毎年60を超えるクリスチャン団体に巨額の寄付をしていた人であったことなどを振り返りました。今日は、2021年春先に起こったアルケゴスの転落のところから話を始めます。
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アルケゴスの転落
今回の大規模な損失は、大きなリスクをとった賭けが大きくはずれたことがあります。投資の基本として言われるのは、ハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターン。この原則は、投資を始めたばかりの人だろうが、ファン氏のように投資で成功を収めている人だろうが、同様に適用されます。
今までは、彼のとっていた大きなリスクのおかげでファン氏は私財を大きく増やしてきました。そして今回は、その大きなリスクのおかげでファン氏は私財を大きく減らしました。ハイリスク・ハイリターンです。もしもファン氏が自分の持っているお金だけで大きなリスクをとったなら、クレディ・スイスも野村ホールディングスも損失に巻き込まれませんでした。彼が自分のお金をなくしてそれでおしまいだったわけです。
問題を大きくした原因は、ファン氏がレバレッジを賭けた、つまりたくさんのお金をたくさんの金融機関から借りて投資をしたことにありました。「レバレッジ」とはよく言いますが、これは「レバー=てこ」から来ていて、何か重いものを動かしたいとき素手ではなかなか動かないところ、てこを入れて「てこの原理」を使って力をかけると、少しの力が増幅されて簡単に動かすことができるしくみのことです。
小さな力な大きな力になる、つまり小さな投資が大きな利回りを生むことになります。逆にうまくいかなかったときは、小さな投資が大きな損失を生むことになります。レバーが長いほど少しの力がより増幅されるように、レバレッジがかかっていればかかっているほど(お金を借りていれば借りているほど)うまくいったときにはより大きな利益が出ますし、うまくいかないときにはより大きな損失が出ます。
ファン氏と金融機関との間の契約は、デリバティブ(金融派生商品)の一種である、トータル・リターン・スワップという契約だったそうです。ファン氏は融資を受けていくつかのメディア株に投資をしました。賭けがはずれ、損失が膨らんだため、金融機関は融資の担保としての証拠金の追加をアルケゴスに要請しましたが、アルケゴスはそれに応えることができず、金融機関がやむなく強制的にファン氏の投資ポジションを清算し$20ビリオン相当の株式を売ったため、10数株の集中銘柄において激しい売りを引き起こしました。
悪意のない投資の失敗?
ファン氏のタイガー・マネジメント時代の師であり同志であるロバートソン氏は、今回の損失は2021年のインサイダー取引とは異なり、悪意のない投資の失敗によるものだというニュアンスのことを発言しています。「今回のことは恐らく誰にでも起こり得ることだ」とし、。「本当に良い人間がひどい間違いを犯した」と述べ、「事業上の誤りであり、自身が他の誰よりもひどく傷付いた。銀行やそういった類いから金を奪ったとかそういう話ではない」と語ったそうです。
たしかにインタビューのビデオなどを見ると、ファン氏は大変に穏やかで謙遜に見え、お金を稼ぐことが目的ではなく、神の福音を全世界に広げたいと語る彼の顔はおおらかです。ファン氏はメディア関連株に好んで投資をしたようですが、たとえばLikedin株については、神はソーシャルメディアによって人々が仕事を探したり自分の能力を発揮できることを喜んでおられるといい、人類の前進のために貢献する企業に投資する自身の行いを神は喜んでおられること、投資は神が彼に与えられた召し(使命)であることなどについて語っています。「私は小さな子どものようです。神様をよろこばせるために、今日は何をしたらよいですか、どこに投資をすればいいですかと聞くのです」と言い、「私は神様がやめよとうまでは、この仕事をしていきます」とも。
彼は低かったのか高ったのか。。
前回の記事の冒頭で書きましたが、私がこの事件で深く考えさせられ葛藤していたことは、このファン氏が神の前に低かったのか、高かったのか・・ということでした。聖書のいう「低い」というのは、神に比べれば自分は限界のある人間でしかなく、わかっているようでもわかっておらず、理解しているようでも理解しておらず、できているようでもできておらず、失敗しないつもりでも失敗してしまう・・・そういう存在であることを認め、何をするにも自分の知識や計画に頼るのではなく、聖書のみことばと全知全能の神への祈りによって自分自身を常にチェックしながら生きていくということを意味します。
聖書のいう「高い」はその反対で、神に比べれば限界ある人間でしかないのにもかかわらず、わかっていないくせにわかっていると思い、理解していないのに理解していると思い、できていないのにできていると思い、失敗してしまうのにまるで失敗していないかのように思い、自分中心な観点からものをみて自分の知識と判断に頼って生きていくことです。全知全能の神がいてすべてを見まわせるとしたら、自分はその足元にも及ばず、ほんの限られた部分しか見えていないにもかかわらず、すべて見えているように勘違いしていること、これを「高ぶり」と言います。周りにいませんか?そういう人。「あの人は、自分のことが見えていない。」、「全くわかりもしないのにえらそうに・・・」と思う人。そういう人が「高い人」です。でも、聖書をよくよく読んで自分のことを考えると、実は私自身もそういう高ぶった者であることが、やさしく(とがめるのでなく、あわれみをもって)示されるのです。「ああ、神様ごめんなさい。ついつい自分を上げていました。どうぞ私が見えないままで間違った道に迷いこまないように、どうぞあなたの知恵で導いでください」と祈るのです。
人間は程度の差こそあれみんな自己中心的です。他人より自分が正しいと思い、他人より自分を上に上げるどころか、場合によっては全知全能の神よりも自分を高く上げてしまう。聖書に出てくる「罪」ということばは、「的はずれ」という意味です。旧約聖書はもともとヘブル語で書かれており、罪は「ハター」と言いますが「的を外していること」を意味しています。一方新約聖書はもともとギリシャ語で書かれており、罪は「ハマルティア」と言いますがこれもまた「的外れ」という意味です。
的とは何か。神です。自然界を造り、人間を造り、私を造り、すべてを治めている神に的が合っていないこと、神を見つめていないことが罪なのです。的が外れている、つまり神に焦点を当てていないと、どうしても自分の絶対位置がぼやけ、ちょっと失敗すれば「自分はなんてダメなんだ。自分は価値がない人間だ」とどん底に落ちたり、反対にちょっとうまくいけば「自分は何でもできる。神なんていらない」と高ぶることになります。神に焦点が当たっていれば、どん底に落ちず、高ぶらず、でも低くいられます。父なる神に比べれば限りある取るに足らない存在だけれど、このままで父なる神は私を受け入れていてくださり導いてくださる、私は今日も神のみ声を聞きながら子どものように父を慕って生きよう・・となるわけです。この低いポジション、慣れると大変心地よく安定しています。偉そうにする必要もないし、卑下する必要もない。低くて安定した存在。父に安心して依存できる存在。平安というやつです。
ところで、ファン氏は低かったのか、高かったのか。彼のことば、「私は小さな子どものようです。神様をよろこばせるために、今日は何をしたらよいですか、どこに投資をすればいいですかと聞くのです。」は、父なる神を慕う子どもとして低くありたいという思いなのでしょうか。父の声のまま投資をして、たくさんのお金をつくり、それをふんだんに神のために寄付を行い、自身は派手な生活もせず自分が有名になったり脚光を浴びることは望まなかった・・その意味ではファン氏は低かったのかもしれないと思います。
半面で、もし外れたら自分の財産のほとんどをなくしてしまうような賭けをし(私は、ファン氏の行う短期的な「投資」は本当の投資とは思いません。「投機」に近いように感じます)、自分の家族や社員をはじめ、自分を信用してお金を貸してくれた金融機関にも迷惑をかけ、巻き込んだ株式の企業や投資家にも間接的に迷惑をかけることになった行動が、神の声を聞いた結果だったとはどうしても思えない部分があります。それは、分を超えたリスクテイキングであり、貪欲であったのではないかと思うのです。分を超えたということは、高ぶったということです。自分のキャパシティを超えて、とるべきでないリスクをとってしまったということだと感じるのです。
聖書のことばをひとつ思い出しました。
高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。
(旧約聖書 箴言16章18節)