ほんとうにすごい本なんです!

この記事がポストされるのは12月24日のクリスマスイブですから、ファイナンシャルプラニングのことではなく聖書のことを書いてみようと思います。私は、ロサンゼルスのサウスベイ地区にあるローリングヒルズカベナント教会という教会に通っています。このブログやファイナンシャルプラナーとしての仕事は、私の人生のうちの大切な部分でありもちろん心を込めて行っていますが、クリスチャンとしての生き方はおそらくそれよりもずっとずっと大切なもので、私の人生の土台にあるものだと思っています。教会では賛美チームに属し、日曜礼拝では神様を見上げて賛美するのが(ボーカルです)大好きです。火曜日には聖書とお茶の会という場で、みなさんと頭を突き合わせながら聖書の奥深さを楽しんでいます。水曜日は祈り会というのがあって、教会の兄弟姉妹とともに神様の前に感謝して祈りを捧げます。

そもそも私は結婚して子どもを持つ年齢まで、聖書を読んだことはありませんでした。2000年にバージニア州に引っ越した時、子どものお友達のお母さんに誘われバイブルスタディを始めました。いいことが書いてあるなとは思いつつも、日曜に教会にいくなど面倒だから適当な距離を置いていました。2009年にカリフォルニアに引っ越した時、どういうわけか新しい地では教会に属したいという思いが与えられ、今の教会に道を示されました。そこからは聖書をむさぼるように読み、2010年には確信をもってクリスチャンになり洗礼を受けました。

 

わけのわからない本・・・

洗礼は“クリスチャンになりました”と公言するための儀式であり、洗礼を受けたからと言って信仰が完成するわけではなく、それは単なるスタートです。そこからキリストとともに歩む人生がはじまりました。聖書を読んで祈るうち、自分の身勝手さや自己中心さに気づけるようになり、それをその都度豊かにゆるしてもらい、また成長できるこの豊かな人生は何にも代えがたいと思います。バージニア時代には友人に勧められ、確か70ドルを払って最初の聖書を買いました。いわばおつきあいで、“こんなわけのわからない書物に70ドルなんて高いな~”と思ったのを覚えています。今では、英語の聖書、訳の違う聖書など含め全部で4冊持っています。

私は毎朝、旧約聖書を2章と新約聖書を1章読んでから一日を始めます。その時間が素晴らしい宝で、その時間を通して神様は豊かに語られ、物事の本質を指し示し、励まし導いてくれます。“聖書は、神の霊感によって書かれた”と聖書自体に書いてありますが、本当にその中にあるみことばは生きていて、その日その日の私に必要なメッセージを豊かに語ってくれます。霊感によって書かれた本なので、霊によって紐解かねば(自分の知識や読解力だけでは)ただの“わけのわからない本”のままですが、霊にあって祈りつつ読むと、万華鏡のようにすばらしい世界を見ることができます。

 

矛盾のないひとつのストーリー

聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の、全66巻の書物が合わさってできています。神の霊感によって書かれましたが、実際に書くという作業をしたのは人間で、約40人の著者によって約1500年という長い間にわたって書き記されました。著者のバックグラウントはさまざまで、預言者や祭司がいるかと思えば、取税人、漁師、職人、羊飼い、医師などもいます。旧約聖書はヘブル語で、新約聖書は主にギリシャ語で書かれています。

この時間、地理、言語、社会的バックグラウントを超えて執筆されたものが集められた一冊の本、聖書が、最初から最後まで矛盾なく、ひとつの大きなストーリーとして完全につながり完成していることは、まさに神わざです。一見、全く別の無関係なことを書いている部分(たとえば聖書のすご~く最初の方と、すごーく後ろの方など)が、実は深いところで関連しあい、一定のパターンでつながっているということが良くあります。そこには深い意味があり、しかもそれが単なる”昔の話“ではなくて、その日の自分の人生にもつながる意味があることを発見すると、楽しくてうれしくてエキサイティングで、まるで毎日宝箱を開いているようです。まさに万華鏡の世界です。

 

美しく並べられたもの

エンジニアリングを教えている主人はいつもそれを“フラクタル”と呼びます(主人はまだクリスチャンではありませんが、食卓でよく聖書の話をします)。フラクタルというのは、(私はうまく説明できないのでGoogleしてみてください)、小さなパターンが繰り返すことで大きなパターンができていく・・、簡単な数式モデルを繰り返すと複雑なモデルを形成することができる・・・どこまでも繰り返せば無限の複雑さを形成できるという概念だそうです。この概念は1980年代に数学者であり経済学者であるベノワ・マンデルブロートにより確立されたそうで、これは数学的概念というだけではなく、自然界に広く普遍的に存在するものでもあるということです。たとえばこれ、ロマネスコ・ブロッコリというブロッコリです。パターンが繰り返してパターンをつくりだしています。しかも美しい。しかもおいしい。

このパターンが聖書の中にもあって、小さなパターンがあちこちに繰り返されていたり、小さなパターンが大きなパターンを形作っていたり、それがすぐには見えないけれど、よくよく読むと確かにある!そしてそこには天地創造の神の意図が深く刻み込まれているのです。しかも、この小さい私という存在もその中の一部として組み込まれている・・と知れば、今日の私の一日は意味のないものであるはずがない。。

私は小さいころから推理小説が大好きで、アルセーヌ・ルパン、シャーロック・ホームズ、明智小五郎(知ってます?)などなど大体読みました。もともとロジカルに考えるのが好きなタイプなので、たまに“あれ、本の前のほうにはこんなふうに書いてあったのに、ちょっとこの展開は変だな”などと、おそらく編集者も見逃したような小さな矛盾を見つけることがありました。ところが、聖書にはこれがまったくないばかりか、読めば読むほどつながっていき深く刻まれたパターンが浮き上がってくる・・本当に不思議な(神の霊感によって書かれたから当然ですが)他にはない書物です。

 

人間どろどろ

自分がクリスチャンになる前は、クリスチャンや教会は縁遠いものと思っていました。“清く、正しく、美しく”・・自分にはぜったい無理と思っていました。そんな堅苦しい生活はごめんだと思っていました。でもそれは大きな勘違いでした。クリスチャンほど自由な人はいないと思います。真理は私たちを自由にする・・と聖書には書いてありますが、その通りで、聖書に書いてあることを知れば知るほど、私はどんどん解放されていきました。

教会は、“清く、正しく、美しい”人が集うところではなく、痛んでいる病人が集うところです。聖書には、痛んでいない人はいない、ズレていない人はいない・・と書いてあるので、たぶんおそらく私たち皆どこかは痛んでいるんだと思います。“ズレる=的を外す”はギリシャ語でハマルティアという単語で、この単語は「罪」と訳されます。全うに生きているつもりでも、なんか苦しい。悪いことはしていないけど、なにか満ち足りない・・これがズレであり、ズレているから聖書を読み、的を当てなおす。自分はどこから来て、どこに行くものなのか、自分は誰なのか、自分はなぜ生きているのかを知る。自分がその一部である大きなルール、オーダー、計画を知る。これは何とも安心でエキサイティングなことでもあります。

だいたい聖書は“清く、正しく、美しい”ストーリーばかりではありません。“清く、正しく、美しい”ものが出てくるとすればそれは天地創造の愛なる神だけであって、登場する人間はズレた人ばかりです。エジプトからイスラエルの民を導き出すリーター的存在だったモーセは、口下手の殺人者でした。神に愛されたイスラエルのダビデ王は、人妻を奪ったうえその夫を殺すための画策を練るような人物でした。ローマ法王がその名前を受け継いでいる、新約聖書に出てくる人物パウロは、もともと多くのクリスチャンを迫害し殺していた人物でした。彼らがなぜ現代に“よい人”“立派な人”として覚えられているのか、それはズレていた的を当てなおし、またズレたら当てなおし、またまたズレたら当てなおしを続けたからです。

聖書には人間の汚さ、どろどろした自我というものがたくさんでてきます。人間が直面するであろうありとあらゆる人生の側面で、心に抱く不安、虚無感、欺瞞、嫉妬、自己憐憫・・・。それらすべての感情や思いに対する、神の知恵のメッセージが詰まっています。

・・と偉そうに書いていますが、私もまだまだ気づいていもいない聖書の奥深さがたくさん残っています。毎日が発見なことを考えると、きっとこの世からとられるまで聖書をわかりきることはないのだと思います。今思うのは、聖書を読まないで死ななくてよかったということです。わけのわからない(本当に最初はわけがわかりません!)書物だとあきらめなくてよかった。おつきあいで70ドル払ってよかった。

 

自分の思いと違うから・・・

神は私たちが聖書を読みたがらないのをご存じです。キリストをこの世に送る前から、人々が受け入れないのも知っていました。キリストの生誕とその人生に関して、ヨハネの福音書にはこう書いてあります。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネの福音書1章9~11節)

この「くに」はこの福音書が書かれた時代では、イスラエルのことを言っています。ご自分の民はイスラエルの民です。このころイスラエルはローマの圧政の支配下にあり、政治的に力を持ってローマから救ってくれる”メシア(救い主)“を待ち望んでいました。ところが、キリストは大工の家に生まれ、地域的にもさげすまれたナザレという場所の出身だったため、”メシア“のステレオタイプにはあてはまらず、多くの人はキリストを受け入れませんでした。受け入れないどころか目障りだと十字架につけて殺してしまいました。

ここにもフラクタルというかパターンがあって、現代に当てはめてみると、今も創世の神の子であるキリストがここにきているのに、人々は華やかなクリスマスパーティーで飲み食いはするし、クリスマスギフトは交換しあうのに(クリスマスはキリストの礼拝という意味です)、キリストなんてホンモノじゃない、それは昔のおとぎ話だから信じない、科学的でないから嘘に決まっている、聖書はうさんくさいから読まない・・人間は同じことをやっているのです。

どうかこのクリスマス(いや、クリスマスでなくてもいつでも)機会があったら教会に足を運んでみてください。聖書に忠実にもとづいた教会ならどこでも大丈夫です。教会のWebページなどに、What We Believeというようなページがあって、Bibleについて述べている教会ならば大丈夫です。

ヨハネの福音書のこの箇所についてもっと読みたいかたはこちらをどうぞ。この教会には私は足を運んだことはありませんが、この関根先生はメディアを通して何度もお話を聞いています。尊敬できる先生です。

4 comments

  1. 私も在米クリスチャンです。大人になってから洗礼を受けられた方のお話は、そこに行き着くまでのストーリーがあって興味深いですよね!シェアしてくださってありがとうございます。

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