クリスマスと借金返済

早々と12月の三週間も過ぎ、明日はクリスマス。みなさん、クリスマスの予定はどんなですか?どこかに出かける方、家でゆっくり家族と過ごす方、盛大にパーティーをする方、いろんなクリスマスの過ごし方があるのでしょうね。

今週のブログ記事はどんなものにしようかと思い悩むうち、やっぱりクリスマスですから、クリスマスの本当の意味を考える記事にしたいなという思いが与えられました。そして、このブログはファイナンシャル・ブログですから、ちょっと(むりやり?)ファイナンスの観点で書くのにトライしてみます。Bear with me!

クリスマスはキリスト・イエスのお誕生日です。キリストはよく「救い主」という名で呼ばれますが、何から救ってくれるのでしょう・・・それは、借金からです! 私たちは、生きるうち、たくさんの負債を抱えます。過去におかした罪、今おかしている罪、これからおかす罪による負債です。

この罪というのは、何も法的な罪だけをさすのではありません。日本語だと、guiltもsinもどちらも罪と訳されますが、聖書の罪はsinのほうです。たとえ法の上では何も間違ったことをしていなくてもおかしている罪のことで、たとえば嫉妬やねたみなどもそうですし、つい自分中心な考え方にはまってしまい人の言うことを受け入れられない頑固さなどもそうです。人をどうしても許せないという気持ちもそうですし、自分はなんてかわいそうなんだろうという自己憐憫もsinです。また、必要以上に不安に思ったり恐れたりというのもsinです。嫉妬やねたみは、殺人や盗みなどの法的な罪につながることにもなるかもしれません。自分中心な考えは周りとの軋轢を生み、人を許せないという気持ちは相手だけでなく自分をも縛り怒りに支配された生活につながります。自己憐憫は相手に対する寛容を拒否し相互理解を妨げます。不必要な不安や恐れは私たちをがんじがらめにし、周りの人にネガティブな影響を与えます。これらはすべて罪による負債です。法的な罪につながらなかったとしても、わたしたちはこのsinという罪を常におかしているのです。

sinのためにたまっていく負債、これはほうっておくとクレジット地獄と一緒でどんどん利子がつき膨れ上がります。このブログでも、バランスシート(会計でいう貸借対照表)を作ってみて資産(持っているもの)と負債(借りているもの)のバランスをチェックしましょうということを提唱していますが、健全なパーソナル・ファイナンスのためには、資産と負債の健全なバランスが不可欠です。資産から負債を引いたものは純資産(エクイティ)と呼ばれますが、純資産はポジティブ(ゼロより大きい数字)であるのが健全です(左の図)。ところが、バランスを欠いた運営をしてしまうと、場合のよっては負債のほうが資産より多くなってしまい、純資産がネガティブ(赤字=ゼロより小さい)状態になってしまうことがあります(右の図)。たとえば、不動産バブルがはじけた後によく見られたのが「アプサイド・ダウン(上下あべこべ)」という状態で、買った家(持っているもの)の価値のほうが、モーゲージ(借りたお金)より小さくなってしまい、結果的に負債を資産が上回るということになる家庭が続出しました。これは非常に厳しい状態です。

equity

sinによる負債に話を戻しますが、この負債がふくれてくると、実生活では心が休まらない生活になったり、家族関係や人間関係がうまくいかなくなたり、心の満たされない、何かうまくいかない状態になります。たとえ大きな家に住み仕事では成功していても(資産がたくさんあっても)、負債もどんどん大きくなるので、なかなか追いつきません。それどころか、たくさんのものを持っていたとしても、負債のパワーに支配され、返済の追いつかない状態で首が回らなくなります。生活には不安はあっても喜びがなくなり、自分を他の人と比較して変な優越感に浸ったかと思うと、次の瞬間には劣等感にさいなまれたりします。この負債は処理しないと雪だるま式に大きくなり、純資産がネガティブのアップサイド・ダウン状態に陥ります。

私はキリストを信じるクリスチャンですが、それでもしょっちゅうこの状態になりがちです。日本では、クリスチャンは「清く、正しく、美しく・・・」というようなイメージがありますが、これはちょっと違うように思います。クリスチャンとは、自分がいかに罪をおかす人間であり、日々罪の負債を処理することが大切ということと、その処理のしかたを知っている者のことです。

私のsinのよる負債の返済を代わりにしてくれて、純資産をポジティブにしてくれる人、それがキリスト・イエスです。負債の返済は、自らの命を十字架でささげるという形で行われました。キリストは「あがない主」とも呼ばれます。購(あがな)うというのは、なかなか聞きなれない言葉ですが、誰かが代わりに代価を払ってくれ、それにより自分の罪や負債が帳消しになることを意味しています。キリストを信じて従うとき、私の過去の負債も現在の負債もこれからつくる負債も、すべてキリストにより全額返済されます。私は日々、負債処理をしています。「ああ、イエス様、またやってしまいました。どうぞ、この借金を払って私のバランスを正常に戻してください。」と祈っています。

信じるものの負債返済のため十字架で死ぬことを目的に、キリストはこの世に赤子として生まれてくれました。それがクリスマスです。そして、それこそが神からの私たちに対する何よりものギフトです。ギフトを受け取るか、受け取らないかは私たちが決めます。わたしはこのギフトを受け取って、本当によかったと思っています。

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2 comments

  1. そういう意味なんですね。

    正直クリスチャンでない私にとっては、クリスマスは面倒に思っていました。
    私は落ち着いた静かな年末を過ごしたいのに、ダラダラしたディナーやって、欲しくもないギフトのやり取りして自己満足に至るみたいな感じで。

    私、日本のお歳暮だの、お正月の挨拶だなんだも苦手だし、こういうの好きな人って、ウエディングにこだわる系というか、忘年会好きっていうか、そういうのとタイプが重なっているように見えて。。。アメリカ人も。
    ひねくれて聞こえるかもしれませんが、自分の誕生日も忘れる、もっとサックリ、今年も無事過ごせて良かったね~、ありがとう、お昼一緒に食べて、プレゼント1個、くらいにしたい私にとっては、もう重い重い。

    でも今後は、これを耐えて付き合うのが、気まますぎる私のクリスマスの償いと思うことにします。

    1. Cheeさんのご主人はアメリカの方だから、クリスマスは大家族で集まるのでしょうか。確かに面倒くさいし、形式くさいっていうの、なんとなくわかります。私も若いころはそういうのキライでした。でも、50を目前にして、しかも親戚はみんな日本でサンクスギビングにもクリスマスにも簡単には集まれない今、大家族で集まれる人がうらやましかったりします。

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