無料(タダ)のクリスマスプレゼント

クリスマスショッピングはお済ですか?日本的なライフスタイルの方だと、クリスマスに親戚一同で集まるというようなこともあまりなく、ひとりひとりにプレゼントを用意するというようなことも少ないかもしれません。反対にアメリカ的なライフスタイルの方だと、遠くからみんなが集まるため、寝具に始まりタオルや食器など、まずは受け入れるための生活用品一式を用意し、そのうえメニュー決めや買い出しに加え、プレゼントの用意も必要かもしれません。運よく(?)自分の家がホストするわけではなかったとしても、親戚のひとりひとりにプレゼントを用意するとなれば、それだけでも一仕事ですね。子どもが小さいうちは学校の先生や習い事の先生などへの小さなプレゼントも考えねばなりません。

 

あげなきゃいけなくて気に入らないプレセント

アメリカの消費者がクリスマスプレゼントのために費やすお金は平均で$700だそうです。クリスマス(あるいはそれ以外の宗教のホリデー)のためのギフト向け消費金額は、全世界でルクセンブルグが一番、次いで2位がアメリカだそうです。

それだけのお金を費やして皆が皆のために買うクリスマスプレゼントですが、そのプレゼントをもらって満足する人の数は悲しいかな、それほど多くないようですよ。あるリサーチによると、約75%のアメリカ人は、もらったプレゼントを“気に入らない”そうです。結局、もらったけど気に入らないギフトは、チャリティーに寄付する(タックス控除できます(涙))、オンラインサイトなどで廃却して換金する、Re-giftする(もらったギフトをだれかほかの人にギフトとしてあげる)・・・などの方法で不用品を“処分”することになります。

そもそも“気に入らない”ギフトを減らしギフトギビングを効率化することを目的に開発されたギフトカードでさえ、必要ないからといって売却するオンラインサイトがいくつもあります。そこまでしてプレゼントを用意する必要があるのか・・大きな疑問ではありますが、でもクリスマスツリーのふもとには美しくラッピングされた色とりどりのプレゼントが用意されている絵は、クリスマスには“なくてはならないもの”であり、もらったらあげなければならないという妙なバランス感覚も根強く生きており、結局人は、たくさんのお金と大きなストレスを抱えつつ、ひいてはごみの山に貢献するクリスマスショッピングを続けるわけです。

 

クリスマスって何?

クリスマスというのは本当は何のイベントで、私たちは何をお祝いし、どうしてプレゼントを人にあげることになっているのか・・・ご存知でしょうか?クリスマスというのはChristmasと書きますね、そこにChristということばが入っていることからも分かるように、イエス・キリストの誕生をお祝いするイベントです。実際聖書にはキリストが12月25日に生まれましたとは書いてありませんが、ただその生誕の詳細は新約聖書の四福音書に詳しく書かれています。聖書には、キリストが創世のはじめから神とともにあった神の子であること、その神の子が人々を救うために使命を持って人間の世の中にやってきたことが書かれています。

そのころのイスラエルでは、律法学者という人たちがいて、彼らは旧約聖書を暗唱しているような“学識者”で、モーセの十戒にはじまりありとあらゆる戒律を解き、戒律を守っている人を”正しい“とし、戒律を守らない人は厳しく裁く・・そのような社会ができあがっていました。人々は戒律に縛られていました。守れば”よい人“になれるはずの戒律なのに、実は戒律を守ろうとすればするほど泥沼にはまっていく・・そんな重苦しい雰囲気を、当時のことを書いている聖書の部分を読むと感じます。

”殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない・・・“とある十戒ですが、守るのは簡単だと思いますか?私は思いません。私はよく”殺したり、姦淫したり、盗んだり“してしまいがちです。人を実際にこの手であやめることはないかもしれませんが、自分がよい思いをするために人が多少損をすることがあっても、小さなことだから許されるだろうと平気顔で振る舞うこと・・あるいは、自分がいらいらしているとき、もたもたしている子どもを見てさらにいらいらし、子どもの人間性を否定するようなことをつい言ってしまったりすること・・・これは人間の法律では殺人罪とは全くレベルの違う小さな罪ですが、でも本質的には殺人と同じことだと思います。自分を上にして人を軽んじる行為であり、その先には殺人があると思います。実際に浮気するわけでなくとも、自分の配偶者以外の異性に魅力を感じ(感じるだけならよいにしても)その思いに多少でもふけるなら、それは姦淫と本質的には同じ罪です。ただ行動に移すかどうかの差があるだけで、心にもつ罪の存在は同じです。盗みにしても、銀行強盗をするわけではないけれど、たとえば請求書の額が都合よく数百ドル安く来た・・どう見ても間違った請求だけど、ラッキー!そのままにしておこう・・というのは、本質的には盗んでいることと同じです。程度の差はあるかもしれませんが、罪としての本質には変わりないように思います。十戒の最後には、”あなたの隣の人の家を欲しがってはならない“とありますが、これはハードル高いですよ。”あ~、あんな素敵な家に住めてうらやましい“、”あんなにスタイルがよくてうらやましい“、”よいポジションに昇進できてうらやましい“などなどの思い、ありませんか?ただ”すごい、すごい“と一緒に心から喜んだり褒めたりできればいいのですが、人と自分を比較して、嫉妬したり、自分を卑下したり・・これは十戒の十番目のルールをしっかり犯しています。

こう見るとなかなか行動だけでは十戒を守り切れないことがよくわかりませんか?実は十戒をしっかり守るためには行動を体裁よく整えるだけではだめで、心向きを変えねばならないのです。ところが人間はとりあえず人に見える表面的な体裁から入るので、心の問題はそのまま解決されないまま残り、かえって体裁が一人歩きしそれによって余計に心がどんどん縛られていくという悪循環に陥ります。

 

クリスマスプレゼントがまさにそれです。

 

クリスマスギフトの意味

そのような悪循環に陥って戒律で縛られがんじがらめになった人々の心を救うために、神の子であるキリストが、神の子としての座を降りてあえて人間の赤子になって私たちのところに生まれてくださった・・これがクリスマスです。実際、キリストは後に自分の命を差し出して十字架で死ぬことで、私たちの心の罪の代価を支払い私たちの罪をないものにしてくださったわけですが、この使命を父なる神から負わされて生まれました。死ぬために生まれてきたのです。つまりこれが究極のプレゼントです。人が生きるために自分が死ぬ・・、これがキリストが私たちにしてくれたことであり、このキリストの生誕を祝うために、私たちも自分の財を少し差し出して人のために何かを用意しよう・・これがクリスマスプレゼントの意味です。

ところがどうでしょう。。クリスマスプレゼントは“心を差し出す”ものであったはずが(「賢者の贈り物」という話をご存知でしょう?貧しい夫婦がいました。夫は自分が大切にしていた懐中時計を売って、長い髪が自慢の妻のために鼈甲のくしを買いました。妻は自分の大切な髪を売って、夫が大切にしている懐中時計につける鎖を買いました・・というお話。相手のために、自分の大切なものを差し出す=自分が“死ぬ”ことの象徴です)、人々は行動と体裁を整えるために、クリスマスショッピングの大きなストレスをかかえ、事が終われば今度はもらったプレゼントの処理というもうひとつのストレスに飲み込まれています。

聖書は、この人間の悲しい罪の性質を見抜いて、はっきりとこう書いています。

なぜなら、律法を 行なうことによっては、だれひとり 神の 前に 義と 認められないからです。 律法によっては, かえって 罪の 意識が 生じるのです。(ローマ人への手紙 3章20節)

律法を行う=行動や体裁では 義と認められない=心にある罪がぬぐわれ正しい生き方ができない

律法によっては、かえって罪の意識が生じる=やらなきゃいけない、十分やれていない、なんとかやれたけど満足しない、自分はなんとかやったのに相手はちゃんとやっていないと不平を言う・・・

心を伴わないプレゼントはどれだけ買っても、どれだけもらっても本当にしあわせにはなれません。

本当のプレゼントを受け取る

行動は強要し、体裁はつくろうことはできても、私たちの心だけは自分でも簡単に制御できるものではありません。よくない思い、自分中心な考えというのは、私たちの誰の心にも自然発生的に存在し、簡単に消すことができないものです。聖書はこう書いています。

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

だれが、それを知ることができよう。 (エレミヤ書 17章9節)

これから開放される方法は、神の子の座を放棄し人間の無力な赤ん坊の姿で(ただ死ぬために)生まれてくれたイエス・キリストの与える愛を受け取ることです。この本当のクリスマスギフトは、そのうえタダです!誰でも受け取れます。お布施はいりません(お布施がいる教会があったとしたら、それはまがいものです)。戒律を守る必要もありません。修行もいりません。無料です。無償の愛ですから。キリストの愛を受け取り、十分愛されて満たされると、心が変えられてやわらかくなり、今度は無理にではなくよろこんで人の助けになりたいと思えるようになるのです(ま、人間、罪深いですから、すぐ後退してしまうこともありますが!)。そうすると、結果として心のこもったクリスマスプレゼントも買えるようになる・・と、こういう寸法。行動→心の順番ではなくて、心→行動になります。

私は40歳を過ぎてクリスチャンになりましたが、聖書に出会い神を知ることができたことが、人生で最もよかったことだと言い切れます。聖書ほどよく書かれた理屈のあった書物はありません。このクリスマスに、本当のクリスマスプレゼントを受け取るために教会に行ってみてください(聖書に忠実な教会であれば、どの教会でも間違いがないと思います)。私がこのブログで書いているようなファイナンスの知識など、聖書の真理に比べれば何の価値もありません。最高にSmart&Responsibleな知識は聖書にあるからです。

神は、実に、そのひとり 子をお 与えになったほどに、 世を 愛された。それは 御子を 信じる 者が、ひとりとして 滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。(ヨハネによる福音書 3章16節)

この冬、モノではなくて、大事な人に時間をプレゼントする・・そんなアイデもいいかもしれません。しばらく前の記事ですが思い出したのでご紹介します。

お金と時間といのちのハナシ(1) - 時は金なり? 

お金と時間といのちのハナシ(2) - 時はいのちなり

お金と時間といのちのハナシ(3) - 時は愛なり

6 comments

  1. Merry Christmas!!
    私もクリスチャンになったことが人生の中で最も良かったことです。

  2. こんにちは

    自分はこの時期、自動車をプレゼントとかそんなもう呆れたクリスマスのCMを見たり、買い物に明け暮れるCrazy Shoppersを見たりするのが嫌で、嫌で。。。。仏教徒やし、もともとクリスマスは特別な日でも何でもないのです。。。だからいつもお正月を日本で過ごすためにクリスマス前に出国するのですが、今年は仕事が忙しくお正月も帰れないので凹んでます。親兄弟と離れて暮らしてると、一緒に住んでる時より思いやるというかそんな気持ちが強くなります。今はメールがあるので連絡は簡単に取れても、やっぱり顔を見れないというのは寂しいし、親が何か助けが必要になっても、すぐに対応できなかったり、その場で手取り足取り助けてあげれないとかいうのはすごくストレスで、物よりやっぱり一緒に過ごす時間が大事やと思います。

    1. 本当ですね。私の親も主人の親も日本にいて、だんだんと年を重ねているので同じ思いです。オンラインショッピングは便利になり郵送事情もよくなった昨今、ものを送るのは簡単ですが、やっぱり時間を共に過ごすことが一番ですね。我が家はこの冬は、代表で息子が日本のじいちゃん、ばあちゃんのところに行ってくれ、短い間でしたがともに時間を過ごしてきました。ただ、一緒に寝起きして食事をしただけですが、とても喜ばれました。

  3. 私は社会人になってからクリスチャンになりましたが、あの時の熱意はどこへやら。今は聖書も読まないし、教会もほとんど行ってないです。ダメですね。今年のクリスマスは、昔勉強したことをまた思い返してみたいと思います。

    1. ダメじゃないですよ!天なる父はいつでも両手を広げて待っていてくれます。クリスチャンにもシーズンみたいなものがありますよね。冷めて離れたから、あ~やっぱり帰りたい・・という気持ちにもなるのだと思います。

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