走り続ける現代の子どもたち-映画Race to Nowhereを見て

今回はお金のことはちょっとおいておいて(今日はサンクスギビングだし。。)、現代アメリカに育つ子どもたちについて思うこことをつらつら書かせてください。先日、Race to Nowhereという映画を見に行きました。これは、現在の学校教育事情、親の期待とプッシュ、それに答えるべく寝る時間を削ってまで宿題やプロジェクトや習い事をこなす子どもたちを写すドキュメンタリー映画でした。なんだか心にずしんとくるとても考えさせられる映画でした。

9年住んだバージニアからカリフォルニアに引っ越してきてはや3年。生活もかなりカリフォルニア・スタイルになってきました。同じアメリカといえども、やっぱりカルチャー・ショックはありました。まず、バージニアでは中都市の大学街で、適度にカルチャーはあり教養の高い人も多く、それなりに教育熱は高かったのですが、今住んでいるLAサウスベイの教育熱はちょっと比べ物にならないほどすごいです。以前のところではまず「塾」というものがありませんでした。SylvanとかKumonくらいならありましたが、このあたりのように日系や韓国系の塾はもちろんないし、チューターも一部の人が使っているくらいでした。スポーツや習い事で忙しいお友達もいましたが、それでもまだプレイデイトで遊んだり、芝生を駆け回ったりするという時間もありました。

ところがここ、LAサウスベイ・・・みんな、いそがしい、いそがしい!塾通いはあたりまえ、夜遅くまでいろんなプログラムがあるし、学校や先生にもよると思うけど、宿題は多いし、テストもばんばんくるし、グレーディングもかなり厳しい、標準テストに向けての準備も忙しいし・・・。小学校の理科や社会は、楽しんで先生の話を聞いていればOKなんて思っていたわたしは、自分の甘さを思い知らされました。小学校3年、4年でもかなり難しいテストがあるし、成績悪いとメール通知がきたりして。

人は環境に左右されるもので、そういう中に入っていると自分もそうなるものですね。2年ほど前までは、「夕食は家族で食べるもの」という家でしたから、主人の出張などがない限り、家族4人で食卓を囲んでいました。家族4人で座って食べない食事は「夕食」とはみなされず、パーティーなどに呼ばれて夕飯を食べて帰ってくると、帰宅してから子どもたちが口をそろえて、「今日のディナーなに?」と聞いたものです。「今食べて帰ってきたじゃん」というと「あ、あれがディナー?」。どんなにごちそうをたべて帰ってきてもです。それが我が家の小さな誇りでもありました。

ところが最近では、家族4人で食べる夕食なんて週1回か2回。金曜日の夜だって、誰かが出ては誰かが帰ってきて、まだ誰かが出る・・・という状態。夕食はちゃんとつくるようにしているけど、食べるのはそれぞれが食べられるときってかんじ・・・。土曜もそのノリ。それでもまだ、車の中で食べるわけじゃないからまだいいけど・・いますよね、車の中で食事して、宿題して・・・という人たちも。どうしてこんなに忙しいのだろう。うちはもともと、ずっと突っ走り続けられるタイプじゃなく、家族でだら~っとするのが好きな家でして。これでいいのかという疑問と、これでなくちゃいけない、みんなそうだし。。という気持ち。。

そこで、このRace to Nowhereという映画のことを知り、見に行ったわけです。この映画、このような生活に疑問を持った親がつくった映画らしく、ちょっとした草の根運動のようなものらしいです。有志が鑑賞会をホストして映画をみんなで見ることで、同調する親たち・先生たちのネットワークをつくっていきましょうという狙いらしい。映画の内容にわたしの独断を交えてのポイントはこんなかんじ。。

 

親の愛情と不安

自分がよい教育を受けられなかった親であれば、「ぜひ子どもには、よい教育を受けさせたい」と思うもの。反対に、自分がよい教育を受けた親であれば、「ぜひ子どもには、自分と同じレベルかそれ以上の生活をさせたい」と思い、子どもの教育に時間とお金をつぎ込んでいる。「いい大学=いい仕事=いい生活=幸せ」という均一的な方程式を信じ、小学校どころか生まれて数ヶ月から始まる英才教育。

Aをとってあたりまえ、B以下はfailureというカルチャー。子どもが学校から帰ってくると、宿題・課題を確認し、やった宿題に間違いがないかのチェックにも余念がない親たち。その裏にはもちろん愛情が存在するわけだが、足を踏み外してはならない、遅れをとってはならないという親の不安も確かに存在する。勝ち組と負け組み、トップ1%と拡大する貧困層、セーフティー・ネットのない社会、きびしい経済状況などが、その不安をさらに拡大する。

 

学校と先生のモティベーション

標準テストの成績で、学校へのファンディングが決まるシステム。いいスコアをとらねば、お金がもらえない学校。標準テストのスコア・アップのため、スクール・ディストリクトから学校に対して課されるプレッシャー。先生のボーナスまでもが標準テストのスコアで決まる。「学ぶことの楽しさ」、「考える力」を教えたいと希望に燃えて教職についても、そんなやり方ではスコアはあがらないと度重なる注意を受け、結局辞職してしまった先生、あるいは学校をやめてプライベート・チューターになった先生もいる。

高校はカレッジ・アプリケーションのための準備機関と化し、中学校、小学校さえもその目的のために踏襲される。カレッジ・アプリケーションのために必要な、GPA、スポーツ、音楽・アート、リーダーシップ、コミュニティ・サービスなどをまんべんなくこなすことを要求される子どもたち。ディストリクトと親との期待にこたえるべく、レベル・アップに努める学校。

 

寝る間もない高校生

アメリカの高校生の多くは寝不足であるそう。やってもやってもやっても終わらない宿題とプロジェクト。近年の宿題の量の伸びは目を見張るものがある。宿題を出す先生=いい先生とする親の考え方。国際的な調査だと、宿題の量と本当の学力とはなんの相関関係もないという結果だそうだが、それに反してどんどん増える学校の宿題。

Aをとってあたりまえ・・とされる子どもたちは、情報をProcessする(結果に至るまでのプロセスを楽しむ・プロセスで学ぶ)ことより、Performすること・Produceする(いい結果を出す)ことで評価される。常に常に、結果を出し続けることを要求される。

眠くしてしかたがないけど、結果を出さねばならない学生たちは、ドラッグを使う。このドラッグはハイになるためのドラッグではなくて、眠気を散らし注意力を上げて何とか仕事をやり続けられるようにするためのStimulant(強壮剤)である。加えてCheating(カンニング)は日常茶飯事である。ビジネスの世界だってみんな違法なことをしている、そのビジネス世界にこれから入っていく自分たちだって、同じことして何が悪いというスタンス。

 

子どもになりきれない中学生・小学生

そんな高校生活の予備軍である中学生・小学生にも同様に波紋は広がる。小学校のうちから3時間、4時間という宿題がでて、遊ぶ時間のない子どもたち。学校から帰ってきてからも、勉強は続く。ダウンタイムのない生活。頭痛や腹痛をうったえる子どもたち。

常に上を、上を求められる子どもたち。終わりのないらせん階段。ただの子どもとして子どもの遊びをするチャンスがなく、自分は本当に何が好きなのか・何がやりたいのかを発見する機会もない。与えられたものをこなし続ける生活。

 

外と内の分裂

親にはなかなか見えないところで傷ついている子どもたちがいる。ある心理カウンセラーの話では、「外では勉強もスポーツもできるパーフェクトな子ども」と見えるが、内側ではbleeding(血を流す思いを)している子どもがたくさんいる・・・。社交的なある子ども・・・とても流暢に話す外交的な顔の裏には、何度もリストカットを繰り返す満たされない内面があった。シャツの袖を上げてみたら、その腕にはたくさんのリストカットの傷とともに「empty」とかみそりで刻んだ痕。すばらしい成果を挙げ、すばらしい結果を残している子どもたちの中にも、内面は満たされず終わりのないレースに疲れているという姿がある。そして多くの場合、それは親や周りの大人にはobservableでない、つまり見えないことが多いのだと。

 

終わりのないレース

子どもに対する親の質問で最悪なのは、“And?”だという女の子も出てきた。”I got an A in xx test.” といえば、“And?”。 “I did a good job in xx.” といえば、”And?”。いつも、上へ上へと上っていくことを期待される。どこまでいっても終わりがない。ただただPerformし続け、Produceし続ける日々。結果、結果、結果が大切。どこまでの結果をだせば休めるのか。

 

ゼロ・ダウンタイム

休む時間、ぼ~っとしている時間、遊ぶ時間、好きなことをする時間がない。遊ぶ?遊ぶって何?周りを見回してただただ遊びにふけっている子どもがどのくらいいる(ビデオ・ゲーム以外に)?遊ぶことを忘れた子どもたち。一見、無駄と思われる時間をゆったり使って、自分は何が好きか、何が嫌いかを、自分の力で発見していくチャンスが与えられていない。常に、大人によって「つくられた環境」で、学び、体を動かし、“遊び(もどき)”をする。そこには常に、大人がつくったルールがある。映画とは関係ないけど、娘の学校では校庭で鬼ごっこをしてはいけないのだそうです。転んでけがをするといけないから?小学生から鬼ごっこをとりあげるなんて!

 

大人が立ち上がって、こんなトレンドには“No!”と言おう。健全な子どもと健全な教育のために、力を合わせよう。学校やディストリクトなどに、私たちの疑問や意見をぶつけていこう・・・

・・・とまあ、こんなかんじの映画でした。わたしが日々の生活に疲れ、疑問に思っていた課題だったので、なるほど~と思いつつ車を運転して帰宅してみると・・・

 

そして・・・我が家

もう9時過ぎなのに、宿題が終わらないと疲れて泣いている娘。「いい、もうこれは今日はやらなくてよろしい」と片付ける私。学校の部活から帰ってきた息子は、10時近くから宿題をやりはじめ、途中で疲れて寝てしまった。

夜中にプリンターの音で目が覚めた。息子がレポートをプリントしているらしい。時計をみたら(朝の)5:15。あとで起きて宿題を再開したらしい。

こんな子どもたちのことをかわいそうだ・・と口にしたら、幾人かの人に言われたことがある・・・「そんなことはない、やればやるだけその子のためになり、自信にもつながるのだから」、「やりなさいと言えば、やるのなら、励まし続けさえすればいい」と。そう思って励ますお母さんでいたいと思う反面、本当にそうなのかと疑う自分がいる。

娘は絵を書いたり、3コマ漫画を描くのが好きなのだけど、それをゆっくりしている時間がなかなかなくて、つい「あれやった?これやった?」とチェックを入れるわたし。本当はじっくりさせてあげたいのに。わたしが尊敬する小児精神科医の佐々木正美先生が、「大人が価値がないと思うようなことこそが、子どもの発達には非常に大切なのです」というようなことをおっしゃっておられたのを思い出す。

 

そこにJoy(よろこび)とPeace(平安)があるか・・・

大切なのってJoyじゃないかな。Joy of learning、Joy of doing something。学ぶことも、遊ぶことも、何かほかの事をすることも、ただただ楽しい、よろこびがあるという経験。ああ、これはこんなに楽しいことなんだ・・・と発見できる機会。グレードや賞につながらなくても、ただよろこんですること。そんな時間が、自分の子ども時代にはあった気がする。有名大学を出て、高給取りになってもJoyがない生活なら、本末転倒。だけど、大学なんて出なくていいさ・・と言い切れない自分。「不安」があるから。。

そう、駆り立てるものは「不安」なんだろう。周りがやっているから・・・これくらいしないと・・・手遅れにならないうちに・・・「不安」にあおられて子育てはしたくないとつくづく思う。不安はとってもdebilitating(人間をかんじからめに縛る)。不安は自分も縛り、子どもも縛る。考えを硬直させる。幸せそうに遊んでいる子どもをpeaceful(心を騒がせず安心して)に見守りたい。To doリストをすべて忘れて・・・でも、これだけやることがあるとなかなか難しいねぇ。すぐに大人になっちゃうんだから、子どもの時くらい十分に子どもをやらせてあげたいのだけど。

 

子どもは一番大切な「資産」。教育も習い事も時間とお金とエネルギーをかけてするに値します。だけど、家計の診断なら、「はい今の資産はいくらです」、「今の負債はいくらです」と数字に出して見る事ができるけど、人ひとりつくりあげることはそうは簡単にはいきませんねぇ。成績表や入った大学名は目に見えるけど、目に見えない、計れないものもも確かにあるじゃないですか。資産がたくさんあるようにみえても、見えない負債をたくさん抱えているようじゃあ、とっても人は成り立ちません。

 

自分の中にバランスを失い、苦しくなったとき、わたしは聖書を読みます。聖書からみことばをふたつ・・・

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:18)

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、この世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。 (ヨハネの福音書14:27)

 

今日、この日に、皆様の上にあたたかくゆったりしたときが流れますように。

こんな話も・・・

お金と時間といのちのハナシ(1) - 時は金なり? 

お金と時間といのちのハナシ(2) - 時はいのちなり

お金と時間といのちのハナシ(3) - 時は愛なり

 

 

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10 comments

  1. うわ~、読んでいるだけでカルチャーショックなんですけれど!
    公立の学校でもそんななのですか?

    ここMAは教育レベル高いですが、そんな雰囲気はありません。たぶんそのバージニアの大学街とかと同じです。ボストンの西側が特に熱心で、日本人も多く住みます。家もそのせいで、めちゃくちゃ高いです。みんな標準テストの平均スコアにしがみつくんですよね。

    このあたりだと、結局、白人のお金持ちばかりのところがいいスコアを出すという結果になるので、色んな人がまぜこぜでいる地域でもいい学校あるのに、だいたい白人(あと日本人)は、そこにしがみつく。Greatschoolsのスコアが9とか10じゃないとイヤ!みたいな。

    さらにお金持ちで教育熱心な家は、ボーディングスクールに入れたりしますよね。。。どんな世界なんだろ~。--;

    何考えて生きているんですかね?

    私の想像では、

    1)エリートになる=尊敬される=親を喜ばす
    2)エリートになる=社会のためになる=人生充実
    3)エリートになる=金持ちになる=次世代の繁栄を目指す
    4)エリートになる=自分って勝ち組~!=自己満足

    のあたりで学生時代を過ごし、社会に出ると、

    ア)自分は1)2)タイプで、こんなに頭の良くて恵まれてる奴はたくさんいるのかと、挫折しまくる=しかも案外3)4)の奴が多いことに気がつき嫌になってくる。=しかも勝てない。=勝たなくてもいいとやっと気がつく。
    子どもには無理強いしない。

    イ)自分は3)4)タイプで、どうにか他を出し抜こうと必死になる=でも勝てない。=それなのにビジネスマンはこうでなきゃとの思い込み=一般庶民から見ると単なる嫌味な奴。クリエイティブでもない。
    結婚や子育てをしないで遊びまくるか、しても他人と競争する育て方。

    ウ)ア)だけれど、勝ってしまう。なので子どもはまた同じ道を歩まされる。

    エ)イ)で勝ってしまう。そして支配層になる。

    庶民(私)は、このア)を子ども時代に経験するので、適当に楽しく人生過ごせる可能性が高い。でも、貧乏すぎたり、勉強できなすぎると、ひねくれる可能性があるので、そこは家族や地域が必死で見守らないといけない。

    って感じになってます。笑

    1. 面白い分析をありがとうございます、Cheeさん。そうかあ、ボストンあたりも案外過熱気味かと思いましたが、そうじゃないんだあ。やっぱ、アジア人が多いからでしょう、このあたり。。でもRace To Nowhereの映画には、ヒニクにもアジア人はほとんど出てきませんでしたけど。。

  2. アジア系が多いって言うのかなりキーだと思うんですけれど、この映画はそれやってないんですね。

    私は聖書や宗教のことは知りませんが、しょっちゅうお腹減る、家や服や自分が毎日汚れる、病気や老いには勝てない、いつ死ぬかわからないっていう苦痛は、みんなおんなじじゃないですか?

    苦しんで、挫折して、慣れて、半分地獄みたいなこの世で、天国のように暮らせるスキルを身につけるってことが、大事なんだと思います。

    社会が作ったゲームに勝たないといけない教育っていうのは、挫折しないように人生過ごせるようにやっているつもりなのでしょうが、反作用が超大きいと思うんですよね。

    それを乗り越えた人は、ものすごく強くなると思いますけれど。

    ずっと貧乏だと逆に衝撃的な挫折ないのかも。(自分はこれに近いぞ!笑)

    私の想像ではですね。
    我が家の不思議な長男みたいなのが、実は最も尊い、邪念のない人間の完成に近いんじゃないかと。

    そんで、子孫は残さない。
    くだらんことに終止符。

    聖書にはそんなこと書いてないですかね?

    1. 「邪念のない・・・」というのは聖書的にいうと、「人間のはかりごとがなくて、思い煩いもない・・」という感じかな、、そういう幼子のような人でなければ天の御国には入れないと書いてあるので、そういうことなんでしょう。人間はいろいろあれこれ考えて、なんとか手を打とうと思い、それに縛られて自滅したりするから、考えなければいいのだけど、考えちゃうみたいなところありますね~。わたしは計画派ですが、主人はcare free派で、わたしが「そんなバカみたいに、何にも考えないでいいの~?」というと、「白痴が一番幸せだ~」と言います。一理あります。

  3. この映画は観ていないのですが子供が通っていた公立高校は優秀なアジア人も多く、多分これに近いのが現状だと思っています。
    そんな中でウチの息子は勉強はそっちのけでスポーツだけは熱心にしていたので、adminさんの息子さん同様に夜遅くに宿題に取りかかるけれど途中で眠ってしまい、明け方に慌てて宿題をやっていました。
    当時は可哀想になるくらい睡眠時間が短かったと思います。
    私立にしろ公立にしろ学校選びは子供の選択ではなく、ほぼ親が子供の為に与えた環境だと考えています。
    そして、あの環境がウチの子供にとって最良だったのかと思う事もありますが、まあ色んな意味であの高校時代がなければ今の息子は存在しないかもと思える事もあるので自分の中でよしとしています。

    1. いいですねー、わたしも子どもたちの高校生活をふりかえって、早くそう言いたいですーー。でも、義母が、「振り返ってみれば、ばたばたしているうちが一番の花だった。」ともいうので、ほんと余裕がなくて大変なのですが、今が一番いいときなのかーーとつぶやいてみたり。。でも、田舎育ちのわたし的には、もう少しゆっくりまったりしたいです。。。

  4. 9ヶ月程経った今頃ですが、書き込ませて頂きます。
    我が家はイリノイなんですが、教育熱の高い公立小学校に去年まで通っていました。
    あと数日で新学年が始まりますが、今年は私立のゆるーい学校に転校です。
    去年は、とにかく大変な4年生だったんです。
    変にテストのスコアが高い我が子はリーチと呼ばれるアドバンスのクラスに2年生から放り込まれ、
    でも、ADDでは無いかと思われる授業態度のせいで親の私は先生から注意されまくりでした。
    学校内でもサイコロジストと会って、学校外でもカウンセラーと会いました。
    結局の所、公立校にフィットさせようとしている事が、我が子を無理矢理箱の中に閉じ込めようと
    している事だと気付き、自然の中で延び延びと学べる緩い学校に行かせる事にしました。
    3、4ヶ月間は私自身、脳みそが充血するのではと思う程悩みましたね。これが子供に取って良い事
    なのか? それとも、現実逃避させているのか? 
    なんだか自分語りになってしまいましたが、この「エリート育成教育」に疑問を持つ親の体験でした。

    1. まやさん、そう、箱にはまればいいんですが、はまらないと悩みますよね。きっとお悩みになった末、ベストの決断をされたのだと思います。うらやましいです。私も伸び伸びゆったりやらせてあげたいです。

      1. お返事、有り難うございます。
        今日が学校の最初の日です。ドロップ・オフの時、「ママは帰っていいよ」と、学校に行く気満々でした。今まで「学校に行きたく無い」で悩んでいたのが嘘のようでした。ま、でも学校は始まったばかりなので未来は分かりませんね。 でも、本人も自分が行きたくて選んだ学校なので、責任感は多少なりともあるようなので、数ヶ月後の様子を見るのが楽しみです。
        伸び伸び、ゆったり、やって行きます。

        1. 自分で選んだ学校に行けたこと、両親が自分の意見を尊重してくれたことは、お子さんが大人になっても、いや、それこそ子育てをする歳になっても、大きな自信と支えになるでしょうね。

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